ロバート・E・ハワード『英雄コナン』

 


ロバート・E・ハワードの『英雄コナン』シリーズを神経発達症、特に自閉スペクトラム症的な観点から読んだ人はいないだろうか。

『英雄コナン』とは、世界のヒロイック・ファンタジーの源流の一つと目される作品群で、『指輪物語』より成立は早い。作者の急逝により、友人作家が英雄譚の隙間を補完して出版されたという経緯は、ハワードの友人であるH・P・ラブクラフトが生み出した『クトゥルフ神話体系』を容易に連想させる。

何より、栗本薫『グイン・サーガ』の元ネタとして日本では有名。辺境を舞台にした初期や外伝で描かれる闇の世界の物語はまさに相似。

栗本薫氏推薦――「コナン。それはヒロイック・ファンタジーの故郷、アメリカの生んだ神話、そして最後の伝説だ。」

桑名は播磨にある古書店、ちゅんちゅん堂で、100円コーナーに無造作に置かれていた創元推理文庫版を買って読んでいるが、基本は一話完結もの、主人公である蛮人コナンが、呪術や魔物、様々な怪異が起こる世界を旅するのだけど。その過程で吐き出される作者の信念がたまらない。


「消え失せた女たちの谷」では文明国生まれで、蛮人の虜囚になった女性リヴィアが、自分の身体を差し出すことを交換条件にコナンに助けを求める。「文明社会と違って蛮族の土地では女性に全く価値はない」と言い放ちながらも、コナンは軍事協定を破ってまで彼女を助ける。なぜなら「この土地での軍事協定は破られるために作られる」「他の土地では極悪の裏切りとみられるものが、ここでは賢い知恵なのだ」と語り、コナンが同盟した部族も戦いが終われば彼の寝首をかくに決まっていると話す。そのことを彼はこの土地で学んだと。

コナンの悪鬼のような戦いぶりを怖れ、リヴィアはコナンとの約束を破って逃げる。が、その先で異界の神に囚われそうになり、再び、コナンに救われる。自分を裏切ったリヴィアに対してコナンは言う。


「俺がしたのは、汚い約束だった。あんたは売ったり買ったりされたりする売女とは違う。救けてやったのも意味のないことではなかったはずだ。男の生き方は、国が違えばいろいろ変わるものだが、場所がどこであろうと、豚みたいな生き方をするのは恥ずべきことだ。俺自身、しばらく考えてみて、それがわかった。約束だからと言って、あんたを俺のそばにおくのは、腕ずくで言うことをきかせるのと同然だ。それにあんたの躰はこんな土地で耐えていけるほど丈夫じゃない。その躰は、都会、書物、文明的な風俗習慣が生み出したものだ。それはあんたの罪というわけじゃないが、俺と生活したんじゃ、じきに死んでしまうだろう。死なれたんじゃ、俺の女としては役に立たん。さあ、これからあんたをスティギアの国境まで連れて行ってやる。それから先はスティギア人の誰かがあんたをオピルの家まで連れて行ってくれるだろう」

彼女は聞き間違いではないかという風にコナンを見上げた。「家へ?」彼女は機械的に繰り返した。「わたしの家へ?オピルへ?故郷の人たちのところへ?町、塔、平和、わたしの家のあるところへ?」

ふいに涙が目にいっぱいになって、彼女はその場にひざまずくと、コナンの膝を抱きしめた。

「おいおい」コナンは当惑した表情でいった。「そんな真似、やめてくれ。あんたをこの土地から送り返すのを、俺の好意と考えているらしいな。いってきかせなかったか? その理由を。あんたという女はバムラの戦闘隊長にふさわしい女じゃないからなんだ」(「消え失せた女たちの谷」より)


こんな風にコナンは言うけれど、そもそも、自分を裏切ろうとした女を助けて、さらに一文の得にもならないのに、故郷の文明地帯まで送ってやる義理は毛頭ないはず。たとえ、移動のついでだとしても。

コナンは野蛮人で、都会のルールを知らない。けれど、都会でも辺境でも、そこで生き残るすべを急速に学び、その一方で断固としてその土地に染まらない。ぶっちゃけていえば、コナンは社会性が全くない。ただ、ひたすら自身のこだわりと信念に殉ずる。


その前日譚「黒い海岸の女王」では、法に背いた行為があって逃げるのだが、その理由をこんな風に述懐する。


昨夜、ある居酒屋で、王の近衛兵の将校が、若い兵士の女に挑みかかった。当然のことだが、兵士は将校を刺し殺した。ところが文明国の法律とはおかしなもので、悪い奴でも、近衛兵を殺すと罰を食らうらしい。そこでその女と兵士は逃亡した。その後、俺がその場に居合わせたと噂が立って、今日のことだが法廷に呼び出された。法官が聞くんだ。若い兵士が逃げた先はどこかとな。そこで俺は、あいつは俺の友達だから、行くえを知らすなんて、裏切り行為ができるものかと答えてやった。すると法官は真っ赤になって怒り出した。国家と社会への忠誠義務、そのほかなにやかやと、俺にはわけのわからんむずかしいことを、長々と講釈したあとで、俺の友達の隠れている場所を言えと命じるんだ。俺もとうとう腹が立ってきた。こっちの立場を話してやったのに、ちっとも相手に通じんのだからな。

しかし、俺は腹の虫を抑えつけて、怒りを見せまいと苦労した。それだのに法官のやつ、俺は法廷を侮辱したとわめき立て、友達を裏切って口を割るまで、土牢に投げ込むとの宣告だ。それでわかった。やつらはみんな、気が狂っている。で、俺は剣を抜いて、担当の法官の頭蓋を叩き割った。(「黒い海岸の女王」より)


これ、訳者も、太宰治「走れメロス」や、夏目漱石『草枕』の「智に働けば角が立つ 情に棹させば流される」を意識してないか。言うまでもなく、夏目漱石は今日ではADHDや神経発達症の素因が強かったのではないかと考えられている。

しかし、コナンも、多少の融通を利かせて、「すみません。全く知りません」としらをきればいいのに、真っ正直で嘘がつけないのも、らしすぎる。自閉スペクトラム症で、問題行動を起こす人の心理を説明するものとして、これと「走れメロス」ほどわかりやすいものはないのではないか。「館のうちの凶漢たち」というエピソードでは、「コナンだけが、盗みも殺人も、正々堂々、天地に恥じることなく行っている」と評されている始末だ。


コナン・シリーズに最初に驚愕したのは、「象の塔」というエピソードだ。コナンが出会う、象に似た異形の怪物ヨガは、惑星ヤグから翼を広げ光を越える速さで飛来した。彼は地球上の生物の栄華没落を横目に安息の地を探した。しかし、あるとき、人間の魔導士に騙され、自由を奪われ、自身が作った象の塔に幽閉された。


コナンはもとより、この怪物の正体を知るわけもなかったが、苦難の痕のむごたらしさを見せられては、彼自身が理由のわからぬ哀しみの虜となるのだった。全人類の邪悪な所業を、己一人が背負い込んだ気持ち。罪悪感に身のすくむ思いといおうか。

ー ヨガは、コナンに対して、「わしの心臓を切りとれ」と頼む。

「人間の生とヤグのそれは別種のもの。人間の死とヤグのそれもまったく異なる。手足が傷つき、盲にされたこの肉体から自由になれば、わしは再び、ヤグのヨガに復活する。輝く朝の冠をいただき、翔ぶことのできる翼を、踊ることのできる脚を、見ることのできる目を、叩くことのできる手を、とりもどせるのだ」


このエピソードは、H・P・ラブクラフトの生んだ神話世界における先住者や古きものども(The Great Old Ones)を思わせるし、年老いた王が死に、若い姿で再生するという概念は、『金枝篇』に集められたような古代の儀式を連想させる。

何より、ロバート・E・ハワードの世界観を強烈に表現している。この宇宙で最も邪悪なのは、神でも悪魔でも宇宙生命体でもなく、狡賢い人間なのだ。邪悪な人間どもに脅かされる宇宙生命体ヨガや、彼に共感するコナンは共に作者の分身なのだろう。