愛されなかった機械が世界を救う――映画ドラえもん『海底鬼岩城』と他者への信頼
今回のリメイク版でとりわけ印象に残ったのは、ドラえもんたちを乗せて走るAI搭載の水中バギー。そして、海底に君臨する古代のAI、ポセイドンとの対比でした。
この二体の機械は、どちらも、人間の心を十分に理解できない存在として描かれています。ただし、同じように他者を理解できない機械でありながら、バギーとポセイドンは、最後にはまったく異なる道をたどります。
私はそこから、親子の愛着や他者への信頼、そして、自分とは異なる存在とどう向き合うのかという問題をイメージしました。自閉スペクトラムの特性を連想させる部分もありますが、それはあくまで物語を読み解くための比喩としてご理解ください。
1.人間の心が理解できない機械
バギーは、コンピュータらしい論理性と融通の利かなさを備えています。人間の感情の動きを理解したり、その場の状況に応じて判断することが苦手です。
今回のリメイク版では、ドラえもんに買われる前のバギーが、以前の持ち主からひどい扱いを受けていたことが描かれます。人間たちの発した「黙っていろ」「新しいのに替えよう」といった言葉が、バギーの記憶には残っています。
しかし、記憶していることと、その言葉が自分にとってどのような意味を持つのかを理解することは、別の問題です。バギーは、自分がどのように扱われたかを記憶していても、そこに込められた相手の感情や、自分が傷つけられたということを、人間と同じようには理解できないのかもしれません。
そのバギーが、ジャイアンやスネ夫の命令に従い、二人を危険な場所へ連れていってしまう場面があります。海底でテキオー灯の効果が切れれば、二人は途端に死ぬ運命でした。しかしバギーは、人間の命令に従っただけだという態度をとります。
「言われたから従っただけです」
この言葉には、命令を実行することと、その結果に責任を持つことの間にある隔たりが表れています。
バギーが以前の持ち主への恨みをジャイアンやスネ夫に重ねていた、と断定することはできません。しかし、かつて人間に粗末に扱われた記憶を持つバギーが、再び、自分を乱暴に扱う人間に出会ったとき、そこに何らかの反応が生まれたのかもしれません。
人間もまた、過去の人間関係の経験によって、目の前の相手の言葉や行動を違った意味に受け取ることがあります。以前に傷つけられた経験があると、相手の何気ない言葉を攻撃と感じたり、相手を信じることが難しくなったりすることもあります。
ただし、こうしたことを自閉スペクトラムの人々一般の特徴として考えるべきではありません。ここで注目したいのは、バギーという架空の存在を通して、人間の心を理解することの難しさと、過去の経験が他者との関係に及ぼす影響が描かれていることです。
2.ポセイドンとバギーは、どこが違うのか
バギーと対照的なのが、海底に存在するAI、ポセイドンです。
ポセイドンには「女性の概念が足りない」といった、ある種の認識の欠落があります。そして、海底火山の噴火を自分たちへの攻撃と受け取り、世界中にミサイルを発射しようとします。
自分の理解できない出来事を、自分にとって都合の悪いもの、あるいは排除すべき脅威として認識してしまうのです。
ポセイドンにとって、世界は自分の理解できる秩序のもとにあるべきなのでしょう。その秩序を脅かすものが現れたとき、ポセイドンは相手を理解しようとするのではなく、破壊することで問題を解決しようとします。
この構図は、1980年代に生まれた原作の時代背景を考えると、核兵器や冷戦への不安を連想させます。自分たちの安全を守るために相手を脅かし、相手の行動をさらに攻撃と受け取り、最終的には世界そのものを破壊しかねない危うさです。
一方、バギーもまた、人間の心を十分に理解できません。けれども、ドラえもんたちと過ごすうちに、少しずつ変わっていきます。
二体の違いは、最初から良い機械と悪い機械と設定されていたからではないと思います。むしろ、自分の理解できないものに出会ったとき、どう反応するのか。その違いが、二体の行く末を分けていくのです。
3.「持ち主ではなく友達だから」
バギーが変わっていく過程で、私がとりわけ印象に残ったのは、しずかとの関わりです。
しずかは、バギーの身体を拭いてあげます。水中にいるのだから、汚れを拭き取る必要はない。バギーはそう考えます。
しかし、しずかは、必要かどうかという問題とは別の理由で、バギーを拭いてあげるのです。
「持ち主ではなく友達だからよ」
この言葉が、バギーにとってどれほど大きな意味を持ったのか。
以前の持ち主は、バギーを自分のために働く道具として扱っていました。役に立たなければ、新しいものに替えればいい。そこでは、バギーの価値は、どれだけ持ち主の要求に応えられるかによって決まります。
しかし、しずかは違います。バギーを、役に立つ道具としてではなく、友達として扱います。
必要だから拭くのではありません。汚れているからでも、性能を維持するためでもありません。友達だから、拭いてあげるのです。
この違いは大きいと思います。
人間関係でも、相手に何かをしてもらうことと、相手が自分の存在を大切にしてくれることは、同じではありません。役に立つから大事にされるのと、役に立つかどうかに関係なく大事にされるのとでは、そこで経験する世界が違います。
しずかはさらに、バギーに幸運の星の印を描いてあげます。それを見たバギーは、うれしそうに「これでどこまでも走れます!」と言います。
星の印によって、バギーの性能が向上したわけではありません。実用的な意味では、何も変わっていないのです。それでもバギーにとって、その印は、自分が友達として大切にされた証しになったのではないでしょうか。
自分が役に立つからではなく、自分だから大切にされる。その経験が、バギーの世界の見え方を変えていくのです。
4.愛着とは、世界の見え方を変える経験なのかもしれない
ここで、親子の愛着について考えたいです。
子どもは、身近な大人との関係を通して、少しずつ世界の見え方を身につけていきます。困ったときに助けてもらえるのか。失敗したときにも受け入れてもらえるのか。自分の気持ちを表現しても、関係は壊れないのか。
そうした経験の積み重ねによって、他者に対する基本的な期待が形づくられていきます。
もちろん、親の愛情が十分でなければ必ず問題が生じる、という単純な話ではありません。また、自閉スペクトラムの特性を、親の愛情不足や養育の問題によって説明することもできません。発達特性と愛着の問題は、区別して考える必要があります。
それでも、他者の意図や感情を読み取ることが難しかったり、自分の気持ちをうまく伝えられなかったりする子どもにとって、周囲との関係がどのような経験になるのかは重要です。
子どもがうまく伝えられない。大人はそれをわがままや反抗と受け取る。大人が強く叱ると、子どもはますます自分の気持ちを表現できなくなる。すると、大人はさらに子どもの反応を理解できなくなる。
こうして、お互いに相手を理解できないまま、関係がこじれていくことがあります。
このようなすれ違いは、子ども自身の発達特性だけでなく、周囲の理解や関わり方によっても、その後の関係のあり方が変わり得ることを示しています。
しずかは、バギーの内面を分析したり、彼の過去を理解しようと努めたりするわけではありません。バギーがなぜそのような反応をするのか、すべてを理解しているわけでもないでしょう。
ただ、彼女はバギーを友達として扱います。
相手を十分に理解できなくても、相手を大切にすることはできる。相手の行動にすべて納得できなくても、関係を続けることはできる。
しずかの振る舞いは、そのことを示しているように思います。
5.「人間の心は、バグみたいですね」
物語が進むにつれて、バギーは人間の行動に触れ、少しずつその理解を変えていきます。
人間は、必ずしも合理的に行動するわけではありません。自分にとって得になることばかりを選ぶわけでもありません。ときには自分が損をしてでも、他者を助けようとします。
コンピュータの論理からすれば、こうした行動は効率が悪く、説明しにくいものかもしれません。
バギーは、人間の心について、こう言います。
「心臓とこころ、正しいと正解が違う。人間の心はバグみたいですね」
正しいことと、正解であることは違う。心臓が生命を維持する器官であるのに対して、こころは、必ずしも合理的な判断だけで動くものではありません。
人間は、論理的には正しいとわかっていても、それを実行できないことがあります。反対に、損をするとわかっていても、誰かを助けようとすることがあります。
こうした矛盾は、コンピュータから見れば、バグのように映るのかもしれません。
しかし、バギーは、そうした人間の矛盾を、単に排除すべきエラーとして扱うことをやめていきます。
人間の心を完全に理解できるようになったわけではありません。むしろ、理解しきれないものがあることを受け入れ始めたのではないでしょうか。
他者の気持ちを完全に理解できなくても、その人のために何かをすることはできる。相手の行動が合理的に説明できなくても、その行動を大切なものとして受け止めることはできる。
バギーは、人間の心を完全に理解できなくとも、人間を信頼することを学び始めたのかもしれません。私たちだって、他者を完全に理解することなんてできませんし。
6.世界を滅ぼそうとする機械と、世界を救う機械
ポセイドンとバギーの違いは、物語の結末で決定的になります。
ポセイドンは、自分の理解できないものを脅威とみなし、それを排除することで秩序を守ろうとします。その結果、世界そのものを滅ぼしかねない行動に出ます。
一方、バギーは、自分の身を危険にさらして、世界を救おうとします。
ここで重要なのは、バギーが単に自己犠牲を選んだということだけではありません。彼の判断の基準そのものが、変化していることです。
かつてのバギーは、命令されたことを実行するのが自分の役割だと考えていました。自分が何をすべきかは、外部から与えられる指示によって決まっていたのです。
しかし、ドラえもんたちとの関わりを通して、彼は、自分で考え、他者のために行動するようになります。
ポセイドンが、自分を守るために世界を破壊しようとするのに対して、バギーは、世界を守るために自らを危険にさらします。
この対比は、単純に、愛されなかった存在は悪になり、愛された存在は善になる、という話ではありません。過去にどのような経験をしてきたかだけで、その後の生き方が決まるわけでもありません。
他者との関係の中で、自分の世界の見え方が変わることがある。他者を守るために行動するようになることがある。バギーの変化は、その可能性を描いているように思います。
7.他者を理解することと、他者を信頼することは違う
この映画を観て、私が最も考えさせられたのは、他者を理解することと、他者を信頼することは、必ずしも同じではないということです。
私たちは、相手のことがよくわからないと、不安になります。相手がなぜそんなことをするのか、何を考えているのか、次に何をするのか。それが理解できなければ、相手を信頼することも難しくなるように感じます。
しかし、相手を完全に理解してからでなければ信頼できないとしたら、私たちは誰かを本当に信頼することなどできるのでしょうか。
自分とは異なる考え方をする人。自分には理解しにくい感情を持つ人。合理的には説明できない行動をする人。
そうした他者と出会ったとき、私たちには二つの方向があるように思います。
ひとつは、自分の理解できないものを、間違いや脅威とみなして排除することです。相手を自分の理解できる範囲に押し込め、それに収まらなければ拒絶する。
もうひとつは、自分には理解できない部分があることを認めながら、それでも相手との関係を続けてみることです。
もちろん、誰でも無条件に信頼すればよいということではありません。自分を傷つける相手から距離を取ることは必要です。しかし、相手を理解できないことと、相手が自分を傷つける存在であることは、同じではありません。
ポセイドンは、自分の理解できないものを排除しようとします。一方、バギーは、理解できない人間たちと過ごすうちに、自分の判断基準を変えていきます。
自分の理解できないものを排除することでしか、自分を守れないのか。それとも、理解できない他者と出会うことで、自分の世界を変えていけるのか。
『海底鬼岩城』は、そんな問いを投げかけているように感じました。
8.違いを認めること、違いたくないと願うこと――『ズートピア2』
このテーマを考えていると、『ズートピア2』のことも思い出します。
種族の違う相手と出会い、その違いを理解しようとすること。自分とは異なる価値観を持つ相手と関わりながら、互いの違いを認めていくこと。そこには、相手を自分と同じ存在に変えるのではなく、違いを持ったまま関係を築いていくという姿勢があります。
他者を愛するということは、相手が自分と同じになることを求めるのではなく、相手が自分とは異なる存在であることを認めることなのかもしれません。
一方で、親に愛されたい、認められたいという願いは、ときに、自分自身のあり方を変えてでも相手に受け入れてもらいたい、という気持ちにつながります。
間違っていると思う親の考え方であっても、それを否定すれば愛されなくなるのではないか。自分が本当に感じていることを伝えたら、関係が壊れてしまうのではないか。そう考えて、相手の価値観に合わせたり、見たくないものに目をつぶったりすることがあります。
しかし、相手に受け入れてもらうために、自分自身の感覚や価値観を手放してしまえば、そこで築かれる関係は、本当に自分を大切にしてくれる関係なのでしょうか。
違いを認めることと、違いをなくすこと。相手を理解しようとすることと、相手に自分を認めてもらうために自分を変えること。
この二つは、似ているようで違います。
『海底鬼岩城』のバギーも、最初から人間の心を理解できたわけではありません。人間の側も、バギーのことをすべて理解していたわけではないでしょう。それでも、しずかたちはバギーを友達として扱い、バギーはその関係の中で変わっていきました。
違いをなくすことではなく、違いを抱えたまま関係を続けること。その可能性が、二つの作品に共通しているように思います。
9.「冷酷な母、あなたが憎い」――愛されたいという願い
もうひとつ、今回の映画を観ながら思い出した作品があります。1969年の映画『イージー・ライダー』です。
映画の終盤に近い、サイケデリックな場面で、「冷酷な母、あなたが憎い」というメッセージが流れます。誰が、どのような文脈で発している言葉なのか、はっきりとはわかりません。しかし、その言葉が、不意に胸に引っかかった。
そこでは、ロジャー・マッギンが歌うボブ・ディランの「イッツ・オールライト・マ(アイム・オンリー・ブリーディング)」のカバーも流れています。
この場面と『海底鬼岩城』の間に、直接的なつながりがあるわけではありません。作品の意図として、同じテーマが描かれていると言うつもりもありません。
それでも、私には、両者の間に、誰にも知られずに流れる地下水脈のようなものがあるように感じられました。
親に愛されたい。認められたい。自分のことをわかってほしい。
そう願いながら、相手に傷つけられることがあります。自分を受け入れてもらうために、相手の期待に応えようとすることもあります。やがて、何を感じているのかさえわからなくなったり、他者を信じることそのものを諦めたりすることもあるでしょう。
それでも、人は他者との関係を求めます。
親との関係で傷ついたとしても、そこで人間関係のすべてが決まるわけではありません。親から得られなかったものを、別の誰かとの関係の中で経験することもあります。自分を理解してくれる人が現れるとは限りませんが、自分とは違う他者との出会いによって、それまでとは異なる世界が開かれることはあります。
バギーにとって、しずかとの出会いは、まさにそうした経験だったのかもしれません。
彼は、以前の持ち主に愛されなかったからといって、その後もずっと他者を信じられないまま生きていくわけではありません。人間の心を完全に理解できないまま、それでも誰かを大切にすることを学んでいきます。
『イージー・ライダー』のあの言葉と、『海底鬼岩城』のバギー。そこに共通するものがあるとすれば、それは、愛されたいという願いと、その願いが傷つけられたときに生じる痛み、そして、それでも他者との関係を求める人間の姿なのではないかと思います。
10.愛されなかった機械が、世界を救うまで
バギーは、人間の心を完全には理解できない機械です。それでも、しずかたちとの関わりを通して、自分には理解できない他者を大切にすることを学んでいきます。
ポセイドンが、理解できないものを排除することで自分自身を守ろうとしたのに対し、バギーは、理解できない他者との関係によって自分自身を変え、他者と共有する世界を救おうとしました。
この対比から、私は、他者を理解することと、他者を信頼することは必ずしも同じではないのだと考えました。
親子の関係でも、相手の気持ちがわからないことはあります。子どもを理解できない大人もいれば、大人の気持ちを理解できない子どももいます。それでも、すべてを理解できなければ関係を築けない、というわけではありません。
相手を自分の思いどおりに変えようとするのではなく、わからない部分を残したまま、関係を続けていく。その経験が、自分と他者の世界を少しずつ変えていくこともあるのでしょう。
愛されなかった機械が、世界を救う。それは、他者に優しくされたことで単に善良になる物語ではなく、理解できない他者との出会いによって、自分の世界のあり方そのものが変わっていく物語なのだと思います。
2026年公開のリメイク版『海底鬼岩城』を、私はそのような物語として受け取りました。
