人を助けること、話を聴くこと――オープンダイアローグから読む『生き心地の良い町』と『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』


1.『生き心地の良い町』岡檀――人を追い詰めない関係とは

以前、オープンダイアローグについて調べていたとき、精神科医の森川すいめいの著書『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』を通じて、岡檀の『生き心地の良い町』を知った。

本書は、徳島県の旧海部町(現・海陽町の一部)で、周辺の同じような環境にある自治体と比べて自殺率が低いのはなぜなのか、その理由を調査した記録である。

海部町の特徴の一つは、人間関係のゆるやかさにある。さまざまな地域から仕事を求めて人々が流入してきたため、もともとの地縁や血縁、しがらみに縛られにくい。人間関係が緊密すぎず、複数のコミュニティを出入りすることもできる。そこには、特定の集団に過度に同調する圧力や、人間関係が硬直して逃げ場を失うような状況が生まれにくい。「ここ以外でも生きられる」という感覚があるのだ。

また、異なる意見を口にしてもよい空気がある。少数者を一斉に攻撃するような集団の力が増幅しにくく、誰かの人物評価を一面的に決めつけることも少ない。人には良い面も悪い面もあり、それらを表裏一体のものとして捉える。

地域の人々の関係は、上からの圧力によって誰かを動かすようなものでもない。若者が自分で考え、主体的に決めることが尊重される。そして、弱音を吐くことも認められている。精神科を受診したり、デイサービスを利用したりすることも、特別なことではなく、当然の権利として受け止められている。人に迷惑をかけるのではないかと、必要以上に気に病む必要がないのだ。

本書に登場する「病は市に出せ」という言葉も印象的だ。病気や対人関係のトラブルを一人で抱え込まず、人々のいるところに持ち出す。うつを特別視せず、偏見を持たない。誰かがうつになったと聞けば、「うつなんやって。様子見に行かな」と口々に言う。そこには、病気になった人を遠ざけるのではなく、自然に気にかける態度がある。

それは、単に「弱音を吐いても大丈夫だよ」と言葉で伝えることではない。実際に様子を見に行くという行動を通じて、そのメッセージを伝えているのである。

人々が集まるサロンも多く、共同の洗濯物干し場やお寺、集会所など、自然に人と顔を合わせる場所がある。そこでは、さまざまな人がいてもよいし、むしろ、いろいろな人がいたほうがよいと考えられている。世の中の主流の価値観に無理に合わせる必要もない。

目指されているのは、誰もが幸福であることでも、不幸を完全になくすことでもない。幸せでも不幸せでもない、ちょうどよい状態。そのような人間関係と居場所が、人を追い詰めない地域をつくっているのだろう。

この海部町のあり方は、オープンダイアローグに通じるものがある。オープンダイアローグでは、本人だけでなく、家族や支援者なども交えた対話の場をつくり、あらかじめ決められた結論に向かって相手を説得するのではなく、それぞれの声に耳を傾ける。異なる意見や矛盾した感情が、すぐに排除されたり、一つの正解にまとめられたりしないことが重要になる。

海部町でも、異なる意見を述べることや、周囲の多数派とは違う生き方をすることが許容されている。両者に共通するのは、人を特定の価値観に従わせるのではなく、違いを抱えたまま他者とつながっていられる環境をつくることだ。

ただし、両者は同じものではない。海部町について描かれているのは、日常生活のなかに形成された地域の人間関係や社会的な環境である。一方、オープンダイアローグは、危機にある人への支援を含め、対話を通じて理解や応答を生み出そうとする実践である。海部町に、あらかじめオープンダイアローグの理念があったということではない。むしろ、両者を並べて読むことで、精神的な危機に陥った人を孤立させないためには、専門的な支援の場だけでなく、日常生活のなかにも、異なる声を受け止められる人間関係が必要なのだと気づかされる。


2.『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』森川すいめい――助けを求めることの難しさ

森川すいめいの本には、何気ないけれど、心を揺さぶるエピソードがいくつもある。森川は、現場に足を運び、自分の目で見て、体験を通して考える精神科医だ。

本書のタイトルにある「ひとの話をきかない」という言葉は、一見すると否定的に聞こえる。しかし、ここで描かれるのは、他人の意見を無視することではない。自分自身の人生があり、自分の意見を持っているということだ。世間の評価や周囲の人々の考えに、必要以上に左右されない。自分は自分、他人は他人。人に何かを押し付けるのは野暮なことであり、都会の人のように格好をつける必要もない。

他人を尊重することは、他人の意見に従うことではない。自分と他人との間に適切な距離を保ちながら、それぞれが自分の人生を生きる。そのようなあり方が、この本から伝わってくる。

印象的なのは、人を助けるときの態度についての記述だ。誰かを助けたいとき、「助けが必要ですか?」と尋ねるのではなく、「助けに来たよ」と伝える。助けたいという気持ちを、言葉だけでなく、具体的な態度で示すのである。

それは、世間一般の価値観に照らして正しい行為だから助けるのではない。自分が助けたいと思うから助けるのだ。

もちろん、誰かを助けようとしても、自分から助けを求められない人はいる。「何かしましょうか?」と尋ねられても、判断を委ねられたことで、かえってためらってしまうかもしれない。助けを必要としている人が、いつも自分の状況を説明し、援助を求められるとは限らないのである。

だからこそ、相手が何を必要としているのかを知るためには、お互いをよく知っていることが大切になる。相手のことを知らないまま、一般論や善意だけで援助しようとしても、うまくいかないことがある。日頃から相手と関わり、その人のあり方を知っているからこそ、必要なときに自然に手を差し伸べられるのだ。

ここには、オープンダイアローグとの共通点と相違点がある。

共通しているのは、援助する側が一方的に相手を理解したつもりになったり、相手にとって何が必要かを勝手に決めたりしないことだ。オープンダイアローグでは、専門家が本人の問題を外側から分析し、正しい解決策を提示することだけを目指すのではない。本人や家族、支援者がそれぞれの声を持ち寄り、対話のなかで新たな理解が生まれることを重視する。支援する側の知識や判断だけで、相手の経験を覆い尽くさないのである。

一方、森川が描く「助けに来たよ」という態度は、対話の場を設け、相手が言葉にして助けを求めるのを待つこととは異なる。助けを求めること自体が難しい人に対して、まず自分から関わりを差し出す。援助を求める能力や意欲を、支援を受けるための条件にしないということだ。

ただし、「助けに来たよ」と伝えることは、相手の意思を無視して援助を押し付けることとは違う。こちらから関わりを始めることと、相手の意思や境界を尊重することは両立しなければならない。相手が何を望み、何を負担に感じるのかを知るには、日頃からの関係が必要になる。森川の援助観は、単に積極的に手を差し伸べることではなく、相手との関係のなかで、その人にとっての援助を考えることなのだろう。


3.対話の場をつくること、助けを差し出すこと

2冊をオープンダイアローグの視点から読み直すと、共通しているのは、他者を自分の理解や価値観に押し込めないこと、そして、人が孤立せずにいられる関係をつくることだとわかる。

海部町では、人間関係が緊密になりすぎず、異なる意見や生き方が許容される。誰かが困難を抱えたときにも、その人を特別な存在として遠ざけず、地域のなかで気にかける。森川が描く人々も、世間の評価に左右されず、自分と他人との違いを保ちながら、必要なときには具体的に手を差し伸べる。いずれも、相手を自分の思いどおりに変えようとするのではなく、その人がその人のままでいられる余地を残している。

オープンダイアローグもまた、異なる声が同じ場に存在することを重視する。誰かの発言をすぐに訂正したり、矛盾を解消したり、専門家の見立てに統合したりするのではなく、まだ十分に理解できない言葉にも耳を傾ける。対話のなかで、参加者の理解や関係が少しずつ変わっていく可能性を開いておくのである。

しかし、ここで区別しておきたいことがある。海部町が示しているのは、孤立や同調圧力を生みにくい地域のあり方であり、森川の本が描くのは、他者との距離の取り方や、援助を差し出す際の姿勢である。それに対して、オープンダイアローグは、具体的な対話の実践であり、特に精神的な危機にある人とその周囲の人々が、何を経験し、何を必要としているのかをともに考える方法である。

つまり、三者は同じことを別の言葉で述べているわけではない。海部町は対話や援助を可能にする社会的な土壌を、森川は他者に関わる際の態度を、オープンダイアローグはその関係のなかで実際に話を聴き、応答する方法を、それぞれ示していると考えられる。

精神科臨床では、患者の話を聴くことが重要だと繰り返し言われる。しかし、話を聴こうとするだけでは十分ではない。そもそも、話してもよいと思える関係があるのか。弱音を吐いたときに、評価されたり、説得されたり、問題のある人として扱われたりしないと信じられるのか。そして、本人が助けを求められないときにも、周囲は関わりを持ち続けられるのか。

「話を聴く」という行為は、診察室のなかだけで完結するものではない。その前提には、異なる意見を述べても関係が壊れず、困難を抱えても居場所を失わず、必要なときには誰かが気にかけてくれるという経験がある。

人を助けることは、相手の問題を解決することだけではない。相手を自分の思いどおりに変えようとせず、その人が自分の人生を生きられる余地を残すこと。そして、助けを求める言葉が出てくるのを待つだけでなく、必要なときにはこちらから関わりを差し出すことでもある。

オープンダイアローグと2冊の本は、それぞれ異なる角度から、そうした関係の可能性を考えさせてくれる。






「生き心地の良い町」岡檀

 以前、オープンダイアローグについて読んでいて、精神科医の森川すいめいの著作「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」でこの本のことを知りました。徳島県旧海部町は周辺の同環境の自治体に比べて自殺率が低い。それは何故なのかを調査した記録です。

 様々な地域から仕事のために流入した人々のコミュニティだから、元々の地縁血縁、しがらみが少ない。海部町はゆるくつながるコミュニティ。人間関係が緊密ではないから、同調圧力も無い。複数のコミュニティを出たり入ったり。人間関係の硬直がない。ここ以外でも生きられる。

 別の意見を言ってもいい空気があるから、少数者を一斉攻撃するような悪い力が増幅しない。人物の評価を決めつけない。良い面と悪い面は裏表。両方見る。

 上からの圧力で動かされるのではなく、若者が主体的に決める。弱音は吐いていい。当然の権利として、精神科受診、デイサービスを利用する。迷惑だと思わないでいい。

「病」は市に出せ 病気や対人トラブルで一人で悩まない。うつを悪い意味で特別視しない。偏見を持たない。「うつなんやって。様子見に行かな」と口々に言う。それらは「弱音を吐いても大丈夫だよ」という態度、非言語的メッセージ。

 助けを求めやすい環境。人々が集まるサロンが多い。共同の洗濯物干し場、お寺、集会所。いろんな人がいてもよい いろんな人がいたほうがよい。世の中の主流の価値観に左右されない。幸せでも不幸せでもない。ちょうどよい。


「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」森川すいめい

 何気ない。でも、心を揺さぶるエピソードがいくつもあります。森川すいめいは、現場に向かい、自分の足で稼ぐ精神科医。

 良い意味で人の話を聞かないとは、自分の人生があり、自分の意見を持っているということ。人に、世間に左右されないこと。人に何か押し付けるのは野暮。都会の人みたいにかっこつけなくていい。自分は自分、他人は他人。

 誰かを助けたいときは、「助けが必要ですか?」と聞くのではなく「助けに来たよ」と伝える。助けたい気持ちを態度で示す。世間の評価で正しい行為だからではなく、自分が助けたいから助けるのだ。

 自分から助けを求められない人がいる。何かしましょうか?と判断を委ねられると躊躇するかもしれない。助けが必要か見極めるために、お互いをよく知ることが必要。