今村夏子「先生のおりがみ」と神田橋條治「自閉の利用」
今村夏子の新作短編「先生のおりがみ」を読みました。町田康と小川洋子が絶賛していたことをきっかけに、私は彼女の作品を読み始めました。
彼女の作品は、生きていく中で経験する社会の不条理を、少女や若い女性の視点から描きます。しかし、それは決して社会悪を糾弾する方向には向かわない。また、社会への適応を単純な解決策として提示することもない。
だって、誰もが勇敢に戦えるわけではない。戦ったところで勝つ保証もない。ならば、自分を守るために閉じこもることも、ひとつの生き方なのではないか。今村夏子の小説からは、そんな問いかけが聞こえてくるように思います。
以下、小説の核心に関するネタバレがあります。
「先生のおりがみ」は、小学生の少女るいの視点から、学童保育所「涼風館」で過ごした六年間を描いた作品です。
40歳前後の女性、奥野先生は、子どもたちとうまく打ち解けられず、周囲からも敬遠されています。それでも先生は、子どもたちのためと思われる折り紙を、不器用に折り続け、その折り紙の花は涼風館の壁のいたるところに散りばめられています。
そこへ、子どもたちに積極的に関わるアルバイトの若い男性、北尾かけるが現れます。かけるは奥野先生にも何度も働きかけ、やがて奥野先生は、かけるに促されるように子どもたちのトランプ遊びに加わるようになり、別人のように、丸く柔らかくなります。
閉ざされていた奥野先生の世界が、一度だけ開きかけるのです。
しかし、ある日、指導員、絵里奈の夫である金山先生が突然、学童保育に怒鳴り込んでくる。絵里奈とかけるの間に、親密な関係があったことが示唆され、彼らは学童保育から姿を消す。
その後、奥野先生は再び子どもたちから離れ、折り紙を折り続ける、以前のような孤立した状態に戻ってしまう。ただし、子どもたちとした約束、「決して学童保育を休まず、悪い人が来ないように見張る」は守り続けます。
人とのつながりによって開きかけた心が、再び閉じてしまう。ここで重要なのは、語り手である小学生のるいと奥野先生の内面が、どこか共鳴していることです。
とりわけ、金山先生が怒鳴り込んでくる場面は、母から十分に顧みられていないと感じていた、るいの不安――「学童保育に悪い鬼が侵入してくる」という恐れ――が現実になったようにも読めます。
そして、その出来事は、一度は人との関わりを信じ始めた奥野先生にとっても、破壊的な影響を及ぼします。
「他者との関係によって人は変われる」という希望を一瞬だけ見せておいて、それをあっさりくつがえす。大江健三郎『死者の奢り・飼育』収録の「他人の足」や、アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』を連想させるような構造です。人との関係のなかで一度成立した自己認識や希望が、最後には再び揺り戻されてしまう。
しかし、今村夏子は、単純に「救済」を否定しているわけではないはず。むしろ、彼女の作品には、「人は救済されなければならない」という物語のあり方そのものへの疑念があるのではないでしょうか。
奥野先生は、最後に「成長」しません。多くの作家は、かけるとの交流によって人間的に成長し、子どもたちとも打ち解けられるようになる、というふうに着地させたくなるでしょう。しかし今村夏子は、あっさり、元に戻してしまう。だって、そもそも、人は簡単に変われない。
この展開は『こちらあみ子』にも通じます。あみ子は、彼女なりに、とてもまっすぐに世界と関わっている。しかし、そのまっすぐさは周囲には伝わらず、彼女は孤立していく。小説の流れは、「あみ子が社会に適応できるようになりました」という方向には進みません。
『星の子』もそう。ちひろは両親や宗教的な環境の中で揺れながらも、最後まで「正常な社会」に戻っていくわけではない。戻っていくためのきっかけや救いは導入されない。
『むらさきのスカートの女』では、さらに極端に、社会に適応することは、本当に正常なのか、という疑問まで浮かび上がってくる。権藤は、正常な社会から見れば異常なやり方で、心のナイフを突きつける。
今村夏子の小説では、「孤立は敗北、適応こそ成功」、「苦しんでも最後はハッピー・エンド」といった、ディケンズ以来の伝統的な価値観が、かなり慎重に回避されている。
むしろ、「人に理解されなくても、その人がその人なりにやっていることには意味がある。その意味は、必ずしも他人に理解されなくてもいい」というところに立っているのではないでしょうか。
折り紙も「伝わらないから無意味」なのではない。学童保育所に張り巡らされた折り紙は、子どもたちだけでなく、むしろ、彼女自身をも守る「結界」として機能しているように思えます。
他者と交流するためには、その結界から出なければならない。しかし、結界の外に出ることには危険が伴う。かけるとの関係によって一度はそこから出かけた奥野先生は、傷つき、再び結界の内側へ戻っていく。
精神医学的に読むと、ここには治療者にとっても重要な問いがあります。治療者はどうしても、「孤立している人を社会につなぐ」「適応を高める」ことを目標にしたくなる。しかし、今村夏子の小説は、そこにわずかに抗う。
「その人が閉じて生きることを、こちら側の価値観から“失敗”と呼んでいいのか」
発達特性やトラウマなどによって、社会との関わりに困難を抱える人を、単純に「社会適応させる対象」として見るのではなく、その人が生きている世界のあり方から理解すること。神田橋條治が提唱した「自閉の利用」にも通じる。
今村夏子の小説は、その可能性を、声高に主張するのではなく、ただ、淡々と、孤立して生きる人々の姿をありのままに描くことによって、示しているのかもしれません。
