河合隼雄の心理療法――ともにいて、こころの流れについていく
はじめに 心理療法って、何をすることなの?
心理療法というと、「悩みを聞いてあげること」「病気を治すこと」「正しいアドバイスをすること」と思うかもしれません。でも、河合隼雄の本を読んでいると、それだけではないことが分かってきます。将棋をしたり、キャッチボールをしたり、紙飛行機を折ったり、何もせず部屋の片隅に座っていたりする場面さえ出てくるのですから。
治療者が「こうすれば治る」と操作するのではなく、その人とともにいて、その人の中にある力が動き出すのを待っている。
河合は、心理療法とは、その人の潜在的な可能性を育てていくことだと考えました。治療者が人を変えるのではなく、その人自身の力によって変わっていくのです。ただし、その力は最初から「良い形」で現れるとは限りません。生きたい気持ちが「死にたい」という言葉になったり、自立したいという気持ちが家出になったり、分かってほしいという気持ちが、暴力や万引き、非行、親への反抗として現れたりすることがあります。
だからといって危険な行動をよいものと考えるわけではありません。自殺や他人への暴力があれば、まず安全を確保しなければなりません。しかし、安全を守ることと、その人を理解しようとすることは別の仕事です。危険な行動を止めながら、「なぜこの人は、このような形でしか苦しさを表せなかったのだろう」と考えることはできます。
河合のいう「ともにいる」というのは、相手の世界に入っていくことです。しかし、相手と一緒になってしまうことではありません。外側から冷静に観察するのでも、上から相手を操作するのでもない。自分もその人の世界に入り込みながら、自分自身の足場を失わない。そして、ときには答えの出ない問いを、二人で持ち続ける。
たとえば、「父親を殺したい」と言う人がいたとします。「そんなことをしてはいけない」とさとしたくなるかもしれません。しかし、河合が考えるのは、「なぜこの人は、『殺したい』と言わざるを得ないほど苦しいのか」ということです。気持ちを本当に理解することと、殺人を肯定することは、まったく違います。むしろ、相手の痛みをこちらが本当に受け止め、その人を尊重することで、その人は「殺す」という行動をしなくても、自分の苦しさを別の形で表現できるようになるかもしれません。
もし、その人が実際に父親を殺してしまったとしたら、「本当はそんなつもりではなかった!」と悔いるかもしれません。そんな当人でさえ分からない人の心を、第三者がどうして知ることができるでしょうか。人の心など、簡単には分かりようがない。そのことを確信をもって知るところから、私たちは出発します。
本当の専門家は、むやみに分析したり、判断したり、原因探しをしたりしません。「その人が悪い」「父親が悪い」などと一方的に決めつけるのでもありません。その人と会い続けていると、その人自身がふと父親の良い側面を思い出したり、それまで見えなかったものが見えてきたりすることがあります。
難しい理論ではなく、具体的な出会いから、河合隼雄が心理療法をどのように考えていたのかを見ていきます。
第一章 「わかる」って、どういうこと?
「大丈夫ですよ」「あなたの気持ちは分かります」と言われると、普通は親切に感じます。でも、そんな言葉がかえって遠く感じられることがあります。人は、本当に苦しいときには、慰めの言葉がほしいのではなく、ただ誰かにそこにいてほしい場合があるからです。
河合のいう共感は、「同じ経験をしたから分かる」という意味ではありません。安易に共感したつもりになって励ますのではありません。
自分が経験していないことでも、自分の中にある似た感覚を手がかりにして、相手の世界を想像していく。たとえば、草花を踏んでしまった経験を深く考えていけば、「何かを傷つけてしまった」という感覚から、人が死ぬこと、人が殺されることへまで想像を広げていくことができる。自分と相手は同じではないけれど、自分の経験を足場にして、相手の経験へ近づいていくのです。
ロジャーズのいう「無条件の積極的関心」「共感」「自己一致」にも通じるところがあります。どんな話でも、まずその人の話として関心をもって聴く。そして、相手の立場から感じようとする。そして、治療者自身の気持ちと言葉が食い違わないようにする。
「何でも話していいですよ」と言いながら、心の中では「そんなことを言われても困る」と思っていたなら、そのズレは案外、相手に伝わります。苦しんでいる人は、治療者が本当に自分を受け止めているのかどうかを、とても鋭く感じ取るからです。
だから、「父親を殺したい」と言われたときも、「その気持ちは分かります」と口先だけで言えばよいわけではありません。「分かります」と言いながら心の中では「殺さんでくれ」と思っているなら、相手との距離は縮まりません。
もちろん実際に人を殺すことを認めるわけではありません。それでも、「この人が、なぜ『殺したい』と言わなければならないのか」というところまで、自分自身の人間としての経験を使って近づいていく。そのとき初めて、共感が単なる言葉ではなくなります。
河合は、治療者の「器」ということを大切にしました。これは知識が多いという意味ではありません。怒り、憎しみ、不安、嫌悪、分からなさといったものを、すぐに説明したり、追い払ったりせずに抱えていられることです。「まだ分からない」という状態に耐える力ともいえます。
治療者が早く答えを出そうとすると、患者のほうが置き去りになってしまいます。だから、ときには何も言わずにそばにいる。その時間そのものが心理療法になることがあります。
たとえば、恋人が交通事故で亡くなった人が、「なぜ私と一緒に生きることができずに亡くなったのか」と問うとします。「頭を打ったからです」という医学的説明では、その問いには答えられません。医学は死の原因を説明できます。しかし、「なぜこの人が私と生きられなかったのか」という問いは、また、別の種類の問いです。
心理療法は、すぐに答えを与えることではありません。ときには、答えの出ない問いを、答えの出ないまま一緒に抱え続けることでもあります。
第二章 できないことは、できない。気持ちは割り切れない
心理療法には「枠」があります。面接する場所や時間を決め、いつ始まり、いつ終わるかをある程度定めます。これは冷たい決まりのようにも思えますが、枠があるからこそ、患者が自分自身で考えることができる場合もあります。
たとえば、面接の最後になると必ず「死にたい」と言う人がいるとします。治療者はもちろん慎重に接する必要があります。しかし、毎回その言葉が出たからといって面接時間をいつも延ばせばよいとも限りません。時間が終わるという枠があることで、「なぜ私はいつも最後になると死にたいと言うのだろう」と、その人が自分から、その意味について考え始めることもあるからです。
河合が繰り返し語るのが、「できないことは、できない」と正直に言うことです。約束を守れないなら、もっともらしい言い訳をするのではなく、「できません」と言う。たとえば「勉強会に行かなければならない」と言うより、「私は勉強会に行きたい」と言ったほうが、治療者自身の本当の気持ちに近い場合があります。自分の都合を「義務」のように見せかけないことです。
一方で、患者の要求を何でも受け入れることもできません。少年がナイフやピストルを隠し持っていて、「誰にも言わないで」と頼んできたら、状況によっては秘密を守れないことがあります。安全や法律上の責任を優先しなければならない場合もあるからです。
それでも、「言うか言わないか」だけで話を終わらせず、「なぜその少年は武器を持っていたのか」「なぜ今、治療者にそれを話したのか」と考える。限界を示すことと、理解しようとすることは両立します。
また、治療がうまくいかないとき、患者や家族のせいにしてはいけません。河合は、治療者が「あなたの問題です」と相手に荷物を全部背負わせるのではなく、自分も一緒に荷物を持って歩くような姿勢を大切にしました。治療者も旅をしている一人なのです。
非行少年を自宅に住まわせてまで、親身になって熱心に世話している教師がいました。やがて少年はずいぶん良くなったように見えました。教師は喜びます。ところがある日、少年は教師の給料を盗んで逃げてしまいます。教師は落胆します。でも、それは非行少年からの無言のメッセージかもしれません。「先生、周りに自慢したいだけちゃいますか。本当に僕のことを見てくれてましたか」。
良いことをしているつもりでも、治療者が「自分はこんなに頑張った」と得意になった瞬間、相手との距離が開いてしまうことがあります。治療がうまくいっているように見えるときほど、自分の側の変化や手応えを喜びすぎず、相手をじっくり見守る必要があるのです。
このことについて、河合は、180度の極端な変化は案外生じやすいともいいます。そのときにやたら喜ばず、じっくり構えて見守る。そうしないと、360度一回転して、元に戻ってしまうかもしれません。
また、人の助けなど借りるものかという気持ちと、助けてほしいという気持ちは、「51対49」であることが多いともいいます。「51対49」というと、わずかな差です。しかし、底のほうにある49の気持ちは無意識に沈んでしまい、意識されるのは「2対0」の勝負だけになってしまう。だから、どちらか一方の気持ちが圧倒的に見えても、実はその反対の気持ちも、同じくらい、存在していることがあります。
「助けてほしくない」と言っている人の中に、ほんの少しだけ「助けてほしい」という気持ちがあるかもしれない。反対に、「助けてほしい」と言っている人の中に、「本当は誰にも頼りたくない」という気持ちがあるかもしれない。人の心は、いつも一色ではありません。
相手の中にある複雑な気持ちを、一緒に考えていかなければなりません。
第三章 「困った行動」には、何か意味がある?
子どもが物を投げる。学校から逃げる。万引きをする。暴力を振るう。「死にたい」と言う。大人から見れば、どれも困った行動です。しかし河合は、行動だけを止めて終わりにはしません。その行動が、本人にもまだ言葉にできない何かを表していないかを見るのです。
ある緘黙の子どもが、カウンセリングを受けるうちに、クラスで物を投げ始めました。やがて他の子どもと物を投げ合い、誰かの頭に当たって先生から注意されます。そのとき、それまでほとんど話さなかった子が、「今のは僕やない」と言いました。問題行動がなくなったことだけを「治った」と考えるなら、この変化は悪化に見えるかもしれません。しかし、その子が初めて自分の言葉を出したという意味では、大きな変化でした。
河合は、カウンセリングを「近所迷惑なもの」と表現することがあります。これはもちろん、危険な行動を放置してよいという意味ではありません。心理療法が進むと、それまで黙っていた人が怒ったり、反抗したり、治療者に文句を言ったりすることがあります。治療者にとっては、そのほうが大変です。しかし、何も言わずに治療者に従っていることが、必ずしも良い状態とは限りません。主体性が出てくると、関係は一時的に「面倒」になることがあります。
「死にたい」と言う子どもに、「生きていたら、いいこともあるかもしれない」と言ったところ、「その程度のことしか言えないのか」と返された、という話もあります。そこで治療者が圧倒されず、「そうや、その程度なんや。あんたのほうが生死についてずっと考えているんやから、もっといいことが浮かぶんやないか」と返す。これは「死にたい」を「本当は生きたいんでしょう」と勝手に翻訳してしまうのとは違います。一緒に考えている態度です。
もちろん、実際の自殺や自傷につながる危険があれば、安全を確保することが最優先です。そのうえで、「この子はなぜ『死にたい』という言葉を使っているのだろう」と考える。その言葉の中には、苦しみだけでなく、今の自分を終わらせて別の自分になりたい、という「死と再生」のイメージが含まれていることもあります。
危険な行動は防ぎながら、その言葉が本人にとってどんな意味を持っているのかを一緒に探っていく。河合の態度は、行動化や死という最悪の結果を避けながら、同時にその奥にある生の可能性を探っていくものだといえるでしょう。
「正しいこと」が人を追い詰める場合もあります。母親が子どもの将来を思って一生懸命英才教育をする。しかし、子どもはそれによって追い詰められ、悪いことをするようになる。そこで河合は、「子どもを追い込んだのはお母さんですよ」と母親にも伝える。ただし、母親を悪者にして終わるのではありません。さらに「あなたが子どものために一生懸命だったことも分かる。でも、その行為が子どもを苦しめている」という二つを同時に抱えるのです。
意見を伝えるときにも、「あなたが間違っている」と断定するのではなく、「あなたの考えはこうですね。でも、私の考えはこうです」と対等な場所に置く。相手が反論できる、話し合いができる余地を残すことが大切です。また、正論ばかりではなく、ときにはくだけたユーモアも必要です。そうでないと、子どもは親に反論できなくなり、言葉の代わりに暴力を振るうことさえあります。
仕事がうまくいかず上司が嫌いだから転職したい、と相談されたとします。望み通り転職してもらえば、問題は解決したように見える。しかし、他の会社でも同様のことを繰り返す場合があります。そこで、ちょっと立ち止まり、「なぜこの上司がこんなに憎いのだろう」と考えていくと、父親との葛藤など、自分自身の問題に触れていくことがあります。外の誰かを責める話が、いつの間にか自分の内面に戻ってくる。心理療法とは、本人が自分の力で考えていけるようにすることでもあります。
第四章 子どもは、自分の力で変わっていく
子どもは、いつも言葉で自分のことを話すわけではありません。遊び、絵、スポーツ、沈黙、ふざけること、反抗すること。その一つ一つが、その子の世界への入り口になります。
だから「何か悩みはない?」と聞く代わりに、「何か好きなことはない?」と聞いてみる。すると、「好きなことはあまりないけど、あんたに話すのは嫌」と言った子がいました。そこで叱ったり、「せっかく聞いているのに」と言ったりせず、「うまいこというな」と受け止める。「嫌だ」と言えることも、その子の力だからです。
不登校の子どもには、完璧主義が見られることがあります。一度学校を休むと「これでおしまい」と感じ、そのまま行けなくなる。ある少年はカウンセリングにはいつも時間ぴったりに来て、「一時間前から待っています」と言いました。治療者が「すると君は今まで一度も遅刻したことがないのか!」と驚く。一瞬、目を見合わせる。遅刻どころかずっと不登校であるのに、と二人で笑い合った。偶然生まれたユーモアを共有することから、変化が始まることがあります。
ずっと黙っている子どもが、次回も来るかと聞かれてうなずき、予約票で紙飛行機に折って飛ばした。治療者が「よく飛んだな」と言うと、子どもは「こんな折り方もあるんや」と返した。問題について何も話していないのに、関係は動いています。子どもは治療者がどこまで自分を受け止められるのか、どこまで自分のやり方を許してくれるのかを試していることもあります。まず行動に変化が現れ、そこから少しずつ内面の変化につながっていくこともあるのです。
好きな碁や将棋を一緒に続け、ついには少年が治療者を負かすようになったころ、学校へ行くようになった。将棋が不登校を治したわけではありません。本人が好きなことを通して治療者と関係をつくり、自分の力で、少しずつ世界との関わり方を変えていったのです。キャッチボールをしたり、ロケットについて延々と話したりすることも同じです。
治療者には、「ロケットが大地から離れていくのは、母親から自立することの象徴ではないか」と思えることがあります。しかし、それをすぐ本人に伝える必要はありません。解釈を先回りして与えてしまうと、本人が自分で意味を発見する余地を奪ってしまうからです。治療者は自分の中では仮説を持っていても、それを絶対的な答えにはせず、本人がどちらへ動いていくのかについていきます。
家族との関わりでも同じです。不登校の少年が「諸悪の根源は母親だから、母親がカウンセリングを受けるべきだ」と言っているという。それを聞いた河合は「私は諸悪の根源に会う力まではないが、その息子くらいになら会えるかもしれん」と返した。すると「面白い奴だ」と興味を持った少年がやってくるかもしれません。
父親が「不登校の原因は自分ではない」と力説するなら、「原因はともかくとして、一緒に何ができるか考えましょう」と伝える。責められないと分かると、父親自身が「私の態度にも問題があったかもしれない」と考え始めることがあります。そのとき、治療者が「ほら、あなたにも問題があったでしょう」と追い打ちをかけるのではなく、その気づきをそのまま尊重するのです。
教師に対しても同じです。「あの子は非行少年だからどうしようもない」と言われたら、すぐに説得して考えを変えさせようとしない。「なんともならんのでしょうな」と聞いていると、教師自身が「いやいや、こんな良いところもあるんです」と言い始めることがある。「さすが先生、生徒のことをよく見ていますな」と返す。人を変えようとするのではなく、自ら変わっていくのを見守る。
人を変えようとすると、相手は変わらされまいと抵抗することがあります。しかし、こちらが少し待っていると、本人の中から別の見方が出てくることがある。治療者の仕事は、相手を思い通りに変えることではありません。その人が自分の力で変わっていく、その瞬間を邪魔せず、そばにいることなのです。
第五章 心の中は、そんなに簡単には説明できない
人の心には、簡単に説明できないものがあります。幻聴、妄想、たとえば自己臭妄想、醜形恐怖、あるいは、解離による記憶の欠落、身体の不思議な感覚、繰り返し見る夢。これらを「全部、心からのメッセージです」と考えるのも、「全部、ただの病気です」と考えるのも、どちらも早計です。
たとえば「誰かに監視されている」と訴える人に、「そんな人はいません。それは妄想です」と言えば、その人が経験している恐怖を無視することになります。もちろん、妄想を事実として肯定する必要はありません。、「監視されていると感じることは、その人にとってどんな意味を持っているのか」「その感覚によって、何が少し楽になっているのか」「それがなくなったら、逆に何が出てくるのか」と考えることができます。
嫌で仕方のない幻聴も同じです。薬物療法などによって幻聴が消えれば、それは大きな治療上の変化です。しかし、幻聴がなくなったことで、それまで覆い隠されていた孤独や不安、現実の生活の怖さが前面に出てくることもある。症状を取ることと、その人が生きていくことは同じではありません。
心と身体を切り離して考えることはできません。行動療法によって、それまで三段しか登れなかった階段を五段までしっかり踏みしめて登れるようになったとします。それは単なる「行動の変化」に見えるかもしれない。しかし、その人の内面でも何かが変化している可能性があります。逆に、心が変化していく過程で身体症状が出ることもあります。
夢についても、「ライオンが出てきた。だから怖い父親を表している」と決めつければ、それ以上考える必要がなくなってしまいます。ライオンがその人にとって何なのか、どんな記憶や感情を呼び起こすのか。その意味が一つに決まっていないからこそ、イメージはその人の中でさらに動いていくことができます。心理療法では、分かったことよりも、まだ分からないことを残しておくことが大切な場合があります。
症状をすぐに一つの物語へ押し込めないことも重要です。これまでの人生や連続した記憶の中にうまく取り込めないものが、症状や悩みとして現れることがあります。その症状は本人にとっては非常にリアルな現実です。ただし、それも一つの可能性であって、すべての症状をそのように解釈できるわけではありません。
「唯一の正しい現実」を外から教えることより、その人が現実をどのように経験し、それがその人にとってどんな意味を持ち、周囲の人とどのような関係をつくっているのかを見ることが大切になります。症状を治療しながら、その症状を持って生きてきた一人の人間そのものを見失わないこと。それが重要なのです。
第六章 治療者にも、できないことがある
治療者は、患者の人生を代わりに生きることはできません。子どもが「一緒に遊んでほしい」「家でご飯を食べさせてほしい」と言ってきても、治療者はその子の父親ではありません。そこで無理に父親の代わりをしようとすると、かえって関係が不自然になります。
あるとき、治療者よりもうまくその子の相手をしてくれる年配の先生が現れた。そこで治療者が、「自分のところに来なくなった」と落ち込む必要はありません。世界は広い。自分にはできないことをできる人がいる。治療者の手柄にならなくても、その子が助かるならそれでいいのです。
河合のいう「何もしないことを全力で」という言葉も、ここにつながります。治療者が部屋の片隅に座り、何もせずに見守ることがある。それは怠けているのではありません。相手が自分で動くために、治療者が先回りして動かないという、積極的な姿勢です。
しかし、何もしないことと放置することは違います。すべき時はする。危険があれば止める。必要なら薬物療法や他の専門家につなぐ。自分ではできないことを「できない」と認める。患者に嫌われることもある。治療がうまくいかず、別の治療者に引き継ぐこともある。治療者が万能ではないことを認めることは、患者を見捨てることではなく、むしろ患者の人生を患者自身に返すことです。
ある立派な大学教授の息子が、「親父は最高だけど、自分は勉強もできないし最低だ」と考え、放火して家出しようとした。普通なら、「お父さんは立派なんだから、あなたも頑張ればいい」と言いたくなるでしょう。しかし河合は、「偉い先生が自分の息子を救えないのはおかしい。お父さんは最低や」と言った。息子は喜びます。しかし最後に河合は、「だから、あなたは自分で最高の生き方を探さなければならない」と伝えた。
これは父親を本当に「最低」と断罪したのではありません。「最高の父親」と「最低の息子」という二つの役割に閉じ込められていた関係を、一度壊したのです。父親の立派さを超える必要もない。父親に反発するためだけに生きる必要もない。自分自身の生き方を、自分で探す。治療者ができることは限られています。
心理療法の終わりも同じです。問題が全部解決してから終わるとは限りません。患者が一人で考えられるようになったり、困ったときに別の人へ助けを求められるようになったり、答えの出ない問いを自分で抱えられるようになったりすれば、治療者は一歩下がることができます。
「ともにいる」とは、ずっと一緒にいることではありません。相手の世界に入り、相手の痛みをできるだけ理解しながら、自分の足場も失わない。危険なときには止める。分からないときには「分からない」と言う。必要なら他の人の力を借りる。そして、最後にはその人自身の人生をその人に返していく。
河合隼雄の心理療法の考え方には、いくつもの一見矛盾するものが同時にあります。近づくことと距離を取ること。理解することと、理解しきれないこと。助けることと、何もしないこと。受け止めることと、「それはできません」と言うこと。
「流れについていく」という言葉が重要になります。治療者が最初から一つの正解を持っていて、患者をそこへ連れていくのではない。その人がどこへ向かおうとしているのか、関係の中で何が起きているのかを見ながら、一緒に歩いていく。
そして、いつかその人が自分の足で歩き始めたら、治療者は少し後ろに下がる。
心理療法とは、「治療者が患者を変えること」ではないのかもしれません。二人が出会い、ともに考え、ときには迷い、その関係の中で二人とも少しずつ変わっていく。その過程を通して、最後には患者自身が、自分の人生を生きられるようになる。
その意味で、「ともにいる」とは、いつまでも手をつないでいることではありません。
一緒に歩けるところまで歩き、歩けるようになったら、そっと手を離す。
それが、河合隼雄の考える心理療法の一つの姿なのだと思います。
以下はアイデアをまとめた段階の原稿です。
―共感とは―
自分で体験していないことでも、類似の体験から膨らませて想像することはできる。草花を踏んでしまったことを深めていくと、人が死ぬ感じ、人が殺されることへもつながっていく。
心理療法とは、その人の潜在的な可能性を育てること。治っていくのはその人自身の力。それは否定的な形で出てくることが多い(生きたいがための自殺行為、自立のための家出、万引き、非行、教師への反抗、親殺し等)。いっしょに乗り越えていく。
治療しようと思うのではなく、その人と一緒にいて、流れについていく。ついていく自分もきちんと自分の人生を生きる(患者も自分も尊重する)。外側から観察したり、上から操作するのではなく、自らも入り込みながら、しかも足場を失わない。答えの出ない問いを二人で持ち続ける。
本当につらい時は、慰めはいらない。ただそばにいてほしい。治療者のほうがじっとしていられず余計な慰めを言ってしまう。そばにいてじっと見守り、主体性、自尊心、責任感、自立する力を育てる。ちゃんと経過を見守っていれば、よくなったことをほめることができる。これまでの経験から確信を持ってそばにいれば説得力がある。
ロジャーズの3原則 ①無条件、積極的な関心(どんなつらい話にも関心を払う)②共感 ③自己一致(言っていることと感じていることが一致)
「父親を殺したい」という気持ちに共感できるか。「気持ちは分かる」と言いながら内心で「殺さんでくれ」と思っていたらいけない。「殺す」と言わざるを得ない心を本当にこちらが腹の底から理解すると、そのひとは不思議とたいてい殺さない。正しいかどうかを考えるのではなく、相手の痛みをこちらも感じなければならない(自分もひょっとしたら人を殺すことがあるかもしれない)。私たちが表面上何でも聞きますと言っていても、相手はどこまで受容されているか、同じ位置で敬意をこめて(尊敬して)接してくれているかどうか伝わってしまう。
―面接の約束―
時間などの枠組みを決めることも大切。死ぬほど苦しい話を続けるのはつらいからクライエントが途中から雑談をはじめることも。あるいは、面接の最後に「死にたい」と言い出すことも。時間を区切ると、その人自身が考え出すきっかけになるかもしれない。
うまくいかないとき、相手のせいにしない。自分の荷物を相手に持たせるような言い方をしない。自分も背負って歩いている一人として言う。一緒に旅をして、成長していく。(例)患者の行動化は、治療者や親に対する「もっとわかってほしい」というメッセージかもしれない。
うまくいっているとき、相手は成長のために苦しんでいる。反省したり、深く考えたり、自分を責めている。治療者が得意になると、相手と気持ちが離れていき、すれ違う。(例)ある教師が非行少年を自分の家に住まわせて熱心に面倒を見た。すごく良くなったとおもっていたある日、少年は教師の月給を盗んで飛び出した。「先生、周囲に自慢したいだけちゃいますか。本当に僕のことを見てくれてましたか」
できないことはできないと言う。約束を守れないときは正直に話す。表面を取り繕って弁解がましくなったり、嘘を言うと相手にばれる。必死な人の勘は鋭い。「勉強会に行かなければいけない」ではなく「勉強会に行きたい」と言うほうがよい。
少年がナイフやピストルを隠し持っていた。それを親や教師や警察に言うべきか言わないべきか。一面的な絶対的に正しい答は無い。「言わんといてくれ」と言われて「それはできない」と答えたとして、言う言わないよりも、「少年がなぜナイフを持っていたのか」「そのことをなぜ今、治療者に告白したのか」を考える必要がある。心のナイフを治療者に一緒に抱えてもらいたかったのかもしれない。
―治療の実際―
「仕事がうまく行かない。上司と合わない。転職したほうがいいのか」。 配置換えや転職を指示すれば問題は解決したかに見える。しかし、なぜ上司が憎いのか考え続けると、例えば父親との葛藤に行きつくかもしれない。人(外部)のせいにしたいのに自分の内面に帰ってくる。話すうちにしぜんと、自分の痛いところに自分で触れていくことになる。
物を投げたのを注意されたことがきっかけで緘黙になった少年。カウンセリングを受けているうちに、緘黙の子がクラスで物を投げ始め、他の子と投げ合いになった。誰かの頭に当たって先生が注意。「今のは僕やない」と緘黙の子がついに喋った。緘黙になったきっかけは彼を理解しない男の注意。喋ったきっかけは彼を心配する先生の注意。
また、カウンセリングは近所迷惑なもの。良くなる過程で行動化は必発。ずっと黙って、場合によっては虐待に耐えてくれていたほうが治療者は楽。
母親の英才教育で煮詰まった秀才の子が悪いことをする。そのことを母親に言うが、母親の良くないことも指摘する。一生懸命やれば伝わる。「子どもを追い込んだのはお母さんですよ」。治療者も同じ痛みを痛みながらやっていく。「あなたのやっていることの意味は分かるけど、その行為自体は悪いこと」を治療者の胸に収めながら行う。
かまってほしい少年が、治療者に一緒に遊んでくれ、家で飯を食わせてくれと言う。治療者は父親ではないしどうするか? うまい具合に相手してくれる年寄りの先生が現れる(世界は広い。私の限界を越えた広がり、みんなで助け合う)。その先生の手柄になってもよい。治療者はどこか片隅に座っていて、あんまり動かない。何もしないことを全力で。
意見するときは相手を非難しない。「あなたの考えはこうだけど、私の考えはこうです」と対等の位置に置く。攻撃できる余地を残し、攻撃されたらしっかり受け止める。正論ばかりの親はたまらない。反論できないから子どもは暴力を振るう。
子どもの可能性が、家族や治療者との関係の中で、ときに自殺念慮として表現される。「死にたい」という子どもに「生きてたらいいこともあるかも」とつぶやく。すると「その程度のことしか言えないのか」と迫ってくる。そこで圧倒されずに「そうや、その程度なんや。あんたのほうが生死についてずっと考えてるんやから、もっといいこと浮かぶんやないか」。すると相手が自発的に考え出し、その子の可能性が動き出す。「生きることは苦しい。だから生きたい気持ちを表すには死にたいというしかなかった。」
―相手の力を利用 / 主体性を刺激する―
「何か悩みはないか」ではなく「何か好きなことはないか」「好きなことはあまりないけど、あんたに話すのは嫌」。そこで叱ったりせず、「うまいこというな」と受け止めると話が進展する。 ずっと黙っている子。「来週も来るか」頷く。渡した予約票を紙飛行機にした。「よく飛んだな」で「こんな折り方もあるんや」と最後に心を開く 相手はこちらのうつわ(容量)を測っている。
不登校の子どもにしばしば完璧主義がある。一度行けないと完璧じゃなくなるから、その後もずっと行けなくなるのだ。いつも時間ぴったりに入室する少年。「1時間前から待っています」。思わず驚く。「すると君は今まで一度も遅刻したことがないのか!」遅刻どころかずっと不登校であるのにとお互い笑う。
少年の好きな碁や将棋をする。し続けて、ついに先生が負かされるようになった頃にその子が学校へ行くようになる。勝負をする過程で同時並行で彼の問題が処理されていく。
頭ごなしに「学校に行きなさい」ではなく、ただキャッチボールをするとか、まず、その子の興味があるところからやっていく。(例)ロケットに興味がありひたすら調べて話をする子ども。「ロケットが大地から離れていくイメージ(母親からの自立)」を抱いて話を聴く。解釈は告げない。本人がどう動いていくか見守り、ついていく。
「諸悪の根源は母親だから母親がカウンセリングを受けるべきだ」「私は諸悪の根源に会う力まではない。その息子になら会えるかもしれん」と返したら子どもが興味を持った。
父親が「子どもが不登校になった原因は自分じゃない」と力説してくるなら、「原因はともかくとして一緒に何ができるか考えましょう」と伝える。非難されないと分かると父親は安心して冷静に考えるようになる。「私の態度にも問題があったかも」と言い出す。それを褒めると、ますますお父さんは自発的に考えてくれる。
担任の先生が「あれは非行少年だからどうしようもない」と延々と語る。ふんふんと感心しながら聞いて、「なんともならんのでしょうな」と感想を述べると、今まで否定していた先生のほうから「いやいや、こんな良いところもあったりするんです」と言い出す。「さすが先生、生徒のことをよく見てますな」とすかさず褒める。
偉い先生の息子が放火して家出しようとした。「親父は最高だけど、俺は勉強はできないし最低のことをしてやろうと思った」「偉い先生が自分の息子を救えないのはおかしい。お父さんは最低や」と伝えると息子は喜ぶ。そこで、「あなたは自分で最高の生き方を探さなければならない」と伝える。
―実存/認知行動療法的な考え方―
妄想をとって普通の人にしてやろうと考えるのではなく、妄想があるなら、ただ、あるということを尊重する。良いとか悪いとか価値判断はしない。妄想によってどんな苦悩をやわらげているのか。妄想を通じてどう変化していくのかが大切。嫌で仕方ない幻聴にも意味がある。幻聴がとれてなくなっても、隠されていた真のつらさが顔を出すかもしれない。幻聴がとれて普通の生活に戻るとき急に怖くなる。
行動療法で、階段を3段しか登れないのが5段しっかり踏みしめて登れるようになったとする。表面的な変化に見えて、内面でも深い変化が起こっているのかもしれない。心が治る過程で体の病気になることもある。無意識と身体感覚はつながっている。原因を探らなくても治っていくことがある。
言語化したり解釈しすぎれば、大切なもの、その人が生きていること自体が損なわれる。「夢の中のライオンは怖い父親だ」と決めてしまうと終わり。その人の中でそれ以上イメージが発展しない。
恋人が交通事故で死んだ。なぜ私と生きることができずに亡くなったのか?必要なのは脳挫傷で亡くなりましたというような医学的説明ではない。
嫁の悪口を言いに来る姑。「その嫁はあなたにとって『牛に引かれて善光寺参り』のその牛です」と伝える。自分はなんで嫁の悪口をずっと言っているのか?その背後に老いて死ぬことへの恐怖があるのかもしれない。
ドラッグをやる少年。どういった深い問題があるのか、周囲に何を伝えようとしているのか。ドラッグをやめて、元の良い子に戻るのではなく、どう生き方が変わるのか。
自分の物語(成育史、連続した記憶)の中にうまくとりこめないものが、症状とか悩みとなって現れる。妄想、幻聴や、自己臭妄想、醜形恐怖、解離による記憶の欠落などの神経症。その人にとってはリアルな現実。症状はイコール「先生、このつらさ本当にわかってくれてますか?」。
心理療法家は、唯一の正しい現実があると考えるのではなく、その人が現実をどのように認知するか、その認知が、その人にとってどんな意味をもつか、周囲の人々とどのように関係するか、に関心を払う。