小砂川チト『ゾンビ回収婦』をトラウマ治療の視点で
小砂川チト作品の通奏低音として、社会から疎外された女性が、人間以外の存在(マネキン、類人猿、VRゲームのゾンビ)とのかかわりを通して自身をみつめなおす、という構造が挙げられます。その過程では、現実と妄想の世界の境界があいまいになっていく。
芥川賞を受賞した『ゾンビ回収婦』は、過去二作と比べて、カウンセリングの過程をより直接的に描いているようにも読めます。加えてサブカルチャー、SFアニメやゲームの影響も色濃い。
(近年、芥川賞を受賞したSF的な想像力を持つ書き手、小砂川チトと市川沙央が、ともに当初はエンターテインメント系の文学賞に投稿し、そこで評価される前に、純文学のフィールドで大きく評価されたことも興味深い。ジャンル小説と純文学の境界が揺らいでいる現在を象徴するような、興味深い偶然にも思える)
小砂川チトが大学院で心理学を専攻していたことを知ると、作品のそこかしこに現れる「星座」「二項関係」「口唇期」といった言葉が、単なる雰囲気づくり以上のものとして見えてきます。
例えば、「奇っ怪な星座(コンステレーション)」として、雇い主と以前の掃除婦、わたしの関係の布置を表したり、ゾンビの腕とわたしとの関係を、幼児と母親の「二項関係」のように描写したりする。「わたしのために腕はそこにあり、わたしは腕から全存在を歓迎されている」というように。
以下、ネタバレがあります。ご注意ください。
父親に甘えられず、過剰適応して「いい子」として育った女性が、自閉スペクトラム的に描かれる男性と結婚する。しかし夫はVRゲームにはまり、生活はしだいに破綻していく。
ある日、AIに職を奪われ、夫婦ともに解雇される。夫は失踪し、主人公は残されたヘッドセットを使い、VRゲーム『プラグを抜かれた丘』の世界に九年以上、没入する。
一作目で、鉱夫のマネキンに父親のイメージを重ねたように、今回はVRゲーム中のアラスカという名のゾンビに、失踪した夫のイメージを重ねる。
あなたを強烈にあなたたらしめているのはきっと、その過剰に奥ゆかしいふるまいと、哀愁を帯びたまなざしだった。
直截にいえば、あなたはいつなんどきでも浮いていた。人格的に死してなお、――それでさえ群れに上手に属することのできないひとがあるのだという事実は、わたしをみょうに引きつけてもいた。
でも、いやだからこそ、わたしはあなたへの憤りをもうこれ以上、抑えることができない。
夫に対する怒りだけではない。回想の中で、うっすら家族に迷惑がられ、過剰適応する自分を大型犬に例える。けれど、弟(ないし妹)は違った。ただ本音でふるまうだけで愛されることができる。
それはいつでもきまって、わたしにむけられた笑いではなかった。そのまなざしはつねにわたし以外の存在にきっぱりとむけられている。(中略)なぜ、いつもそれはわたしにむけられたまなざしではないのか?
ここには、「自分はそのままでは愛されない」という主人公の根深い自己認識がある。
この小説をトラウマという観点から読むなら、ゾンビは、反復強迫のように何度でも繰り返される傷の比喩として読むことができます。
しかし、重要なのはゾンビを殺すことではなく、回収することです。
トラウマは、消そうとしても何度も戻ってくる。だから主人公はゾンビを「殺す」のではなく、「回収」する。
トラウマ治療をこのように捉えるなら、傷を「消してしまう」のではなく、何度も戻ってくる傷を、自分の記憶の中で位置づけ直すことが重要になります。受け入れ難いがゆえに、記憶の中で断絶し、無意識の海へ解離してしまった過去のできごとを、自分の人生のなかにもう一度、置き直す。
そう考えると、「ゾンビ回収」という奇妙な仕事の意味が見えてきます。ゾンビは何度でも戻ってくる、受け入れがたい過去の傷であり、回収することは、その傷を消すことではなく、自分の世界の中に引き受け直すことなのではないか。
創作のインスピレーション元として、小砂川チトは、芥川賞受賞インタビューで、押井守作品、特に学園祭の前日が永遠に繰り返される『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』を挙げています。無限に続くゾンビ回収との相似性を考えると興味深い。
VRゲームの舞台が「口唇期ホテル」と命名されたのは、主人公に親子の愛着の問題があること、他者に十分に甘え、基本的信頼を形成できていないことを示唆しているのかもしれません。
口唇期とは、フロイトの精神分析において、口を介した快や依存などが中心となる最も初期の発達段階を指す。だから、「いい子」として過剰適応し、父親にも甘えられなかったわたしがたどり着く場所が「口唇期ホテル」なのは象徴的に思えます。
そこで主人公は、クマのぬいぐるみの治療者に、自分の人生について語る。
わたしは元来、器用な人間ではないので。子供の頃からずっと、肉体のあちこちを世界に打ちつけたり、擦りむいたり、捻ったりばかりしていて、生傷が絶えなくて。だから、生活していくというのは基本的にもう、痛いもんだと。
クマは、主人公の痛みを受け止める。
「ハハー、それはおちゅらかったですね……(中略)おむねの芯から思います」クマは眉毛を下げてくちを尖らせ、落涙をこらえるような顔で言った。(中略)
……ずうずうしいでしょうか。
「いいえ。当然の感情ではないでしょうか。(中略)クマはそこで一度言葉を切って、みじかい両腕をおなかの前でそっと交差させてから続けた。「だってあなたはそのとき、ご自分を守るために必死、だったのですよね?」
わたしは目をおおきくみひらき、さっき熊のつくったのと同じ顔になって落涙をこらえねばならなかった。(中略)ほとんどはじめて、「理解された」という気がした。
ところで、この治療者とは実は、VRゲーム『プラグを抜かれた丘』の制作者が、赤ん坊のころから一緒に眠ってきたクマのぬいぐるみ、そのものだった。製作者とクマは、お互いの位置を入れ替えながら十万時間も対話を続けたという。
クマは、このゲームそのものについてこう説明する。
「あなたがた(注 ゲーム内のキャラ)がかれの苦しみを再演することで、つまりあなたがたの口から語りなおされることで、病んで膿んだかれ自身の傷を一度、ひらきます。清潔なこの部屋で安全に傷をひらき、かれ自身が発した過去の言葉とあなたがたの言葉、その交合によってふたたび傷口を縫合する。そのようにしてかれは治療しているのです、かれとあなたとこの世界を、すべて、同時に」
ここで描かれている「治療」とは、単に過去の出来事を想起して、言葉にするという意味ではありません。
重要なのは、「かれ自身が発した過去の言葉」と「あなたがたの言葉」の「交合」によって傷を開き、もう一度縫合する、という発想です。
つまり、このVRゲームの世界では、トラウマを抱えた人間が、自分一人で過去を処理するのではなく、他者がその傷を語りなおし、再演することで、過去の出来事との関係を変化させていく。
これは心理療法であると同時に、小説そのものの構造でもあります。
主人公はVRゲーム内で、ゾンビ回収という反復行為を続けることで、過去のトラウマを再演する。過去を消すのではなく、再演する。その繰り返しのなかで、出来事と自分との関係を少しずつ変えていく。
この小説では、「ゾンビ」が単なるSF的なモンスターではなく、何度殺しても戻ってくる記憶や感情のイメージとして機能しているように思う。
しかし、わたしとクマの治療セッションは破局を迎える。
罰せられたい。認められたい。褒められたい。とにかくもうこれ以上軽んじられたくない。殺してやる。邪悪なところもぜんぶみんな、すべて受け容れてほしい。けっして与えて貰えない。傷つき。強い依存心。褒めて。こわいよ。抱っこして。
ここには、相反する欲求が同時に存在しています。
この小説は、過酷な労働からの退却や引きこもりといった社会問題を扱っています。しかし、そのさらに深いところには、幼少期の愛着、対象関係の問題があるようだ。
他者から愛されるためには自分を抑制し、「いい子」でいなければならなかった主人公。その内側では、依存、承認欲求、怒り、攻撃性が不可分に絡み合っている。
そして、その先で、主人公とクマ――患者と治療者の境界そのものもあいまいになっていく。
「わたしもクマも同じくらいに未熟な――患者どうしなのでは」と口にしたとき、クマはわたしを引きとめようとする。
ここでは、治療者と患者の境界そのものが崩れていく。治療する側もまた傷を抱え、治療される側もまた治療者の傷に触れている。
『ゾンビ回収婦』では、このように「治す側/治される側」という二項対立そのものが、次第に曖昧になっていきます。
「あの。もしよろしければ」
「うん」
「痛み止めのお薬、出しときましょうか?」
「いいえ平気です。やさしくしてくれてありがとう。さよなら」
クマは縫合線のところからやわらかく綿を放り出して、いままででいちばんあいくるしい、ぬいぐるみらしい顔になって微笑んだ。
その後、主人公は考える。
あるいは先生のその傷に呼応するようにして、わたしはようやくわたし自身のことを語り得たのかもしれなかった。
治療者の傷に触れることで、患者もまた自分自身の傷を語ることができた。ここでは、治療者と患者が一方的な「治す/治される」の関係ではなく、傷と傷が呼応する関係になっている。
そして、ある日、夫を重ね合わせていたアラスカが死ぬ。
呼吸のうちの吸うのと吐くのと、たったいまどちらをやっていたか分からなくなって、二回吸ったり三回連続で吐いたり何度も失敗して、どんどん息苦しくなり、頭は朦朧としていった。(中略)フラッシュバックに襲われるようにもなっていった。光や音や煙や階段、日射しの加減といったあらゆるものを手当たり次第トリガーにして、アラスカの最期を頭の中で再演してしまうのだった。
ここで主人公は、強烈なフラッシュバックに襲われる。アラスカに似たゾンビを見つけた主人公は、「人は代替可能なのだろうか」と考え始める。
思えば、自分自身も祖父母に他人とよく間違えられていた。
「かわいい、かわいい」と異様なほどの剣幕でそのあたらしい孫の容姿を褒め称えたのだった。祖父母はなんだか、じぶんたちのほんとうの孫をようやく見つけて深く安堵しているようにも見えて、じいちゃん、それわたしじゃないよ、わたしはこっちだよとついぞ、ついぞ言い出すことはできなかった。
「自分は自分として認められている」という感覚が、主人公にはずっと希薄だった。
だからこそ、それでも、アラスカもわたしも決して代替不可能なのだと思う。
これは単なる「夫への執着」ではない。「わたしも代替不可能なわたしとして存在してよい」という、アイデンティティへの気づきでもある。
しかし、その気づきは同時に苦痛を伴う。
わたし、ずいぶん昔からひどく喉が渇いていた(中略)いったんそれに気づいてしまうと、とたん、舌、声帯、粘膜という粘膜、すべてがミイラみたいに一瞬で干からび縮みあがり気道を塞ぎ、死んでしまう、死んでしまう!
自分がかけがえのない存在だと気づくことは、同時に、自分がこれまで受けてきた喪失や傷の大きさを実感することでもある。
そしてここで現実に引き戻され、物語は一種の「種明かし」に入る。
――しかし、本当に種明かしなのだろうか?
飲まず食わずでVRゲームに没頭していた主人公は、両親によって病院に連れていかれ、そのさなか、支配人の顔を思い出そうとする。その顔は父、学生時代の友人、夫へと移り変わっていく。誰もが、わたしを認めてくれなかった。
病院の医師もそう。
だってほんとうに十日間一睡もしなかったんだとすればですよ、あなたは死んじゃってたっておかしくないんですからねえ。アッハ! 医師はさきほどからわたしに頸部を狙われているとも知らず、やけにたのしげにしている。
この小さな老医はようするに、わたしの九年分の勤務実態を疑ったのだ。
でもね先生、それならいったい、この痛みはなんだっていうんです?
父親もまた、主人公を「一人の人間」として尊重して育てたのだと繰り返す。
「わたしたちはお前を一人の人間として、尊重しながら育ててきたつもりだ。そういうやり方が間違っていたというんなら……」壊れたようにそればかり、父は繰り返した。「思い返せば赤ちゃん言葉のようなものを使った覚えもない。こんなちいさな頃から、大人とすっかり同じように言って聞かせて、断じて子ども扱いしなかった」。
「あくまで一人の人間として……いけないことはいけないと……それが間違っていたというんなら……」。
まるで、それしか喋ることをゆるされていないみたいだった。
ここで、「子どもとして甘えること」と「一人の人間として尊重されること」が、奇妙に対立していることが浮かび上がる。
主人公にとって、現実世界の神のような位置を占める父親は、その対立を維持し続ける。けれど、子どもは無条件に愛され、甘えを許されることが、何よりも先に必要なのではないのか?
こうして、わたしは、この現実そのものへの確信を失っていく。
現実がわたしのいま見ているこれひとつである保証は、もはやどこにもないのだということ。いまこの空間には無数の、おびただしい数の現実が、つまり人数ぶんの現実が、並行して起動している――
しかし、その認識は単純な破綻だけでは終わらない。
気づいたのだった。眼さえ閉じてしまえば、わたしのたましいはつねに口唇期ホテルにいることができた。脳裏にすべてが焼き付いているのだから、ヘッドセットはすでに要件ではなくなっていた。
VR世界は、外部に存在する仮想現実ではなくなり、主人公の内部に記憶として存在するものになる。
そして主人公は決めた。
すべてをあなただと思うことにした。これはあなたの目、これはあなたの声。どれもすべてがあなたの落としていったものなのだから、いっそう心をこめて回収しようと、そう決めた。胸のうちはしんと落ち着いていて、どれだけ混沌とした状況に追い込まれても、むやみにパニックを起こすことがなくなった。気づけばわたしはもう急いでいなかった。
ここで、「回収」の意味が変わります。
最初、主人公は失踪した夫を探していた。アラスカというゾンビに夫の姿を重ね、その死を何度も再演していた。
しかし最後には、「あなた」は夫一人ではなくなる。
「これはあなたの目、これはあなたの声」と言うとき、「あなた」は特定の人物を超えて、世界に散らばったあらゆるものへと拡張されている。
失った一人の人間を探し続ける物語から、失われたものが世界のいたるところに存在していることを受け入れる物語へ。
夫という特定の対象への執着が消えたというより、ひとつの対象に閉じ込められていた「あなた」を、世界全体へと解放する。
だから、ゾンビの死体を回収する行為も、ここで意味を変えてくる。
これはあなたの目、これはあなたの声。どれもすべてがあなたの落としていったもの
世界中に散らばった「あなた」を、ひとつひとつ回収していく。
ここで私は、Radioheadの忘却や無意識、来世についての曲「Pyramid Song」を思い出さずにはいられない。かつて出会ったすべてのものが共にあり、恐れるものも、疑うものもない――という、あの曲の世界観だ。
『ゾンビ回収婦』は、トラウマ記憶や失われた対象を回収していくなかで、最終的に、過去のある時点で損なわれてしまっていた自分自身を回収する物語なのではないか。
その意味では、これはユングのいう「自己」の回復にも近いのかもしれない。
もう一つ、ふと連想したのだが、荒木飛呂彦の作品、『ジョジョの奇妙な冒険 Part7 スティール・ボール・ラン』では、世界に散らばったキリストの遺体を回収していく。
本作『ゾンビ回収婦』の「回収」も、単に死体を処理する仕事ではなく、世界に散らばった「大切な何か」を集め直す行為として読めるのではないか。
そう考えると、『プラグを抜かれた丘』というゲーム・タイトルにも、ゴルゴダの丘のイメージが重なってくる。
「失われたもの」「損なわれたもの」を回収し、それを自分の世界のなかに置き直す。
『ゾンビ回収婦』とは、そんな「回収」の物語なのだと思う。
